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再び「人の死」について [考えごと]

ずうっとこのブログの更新をご無沙汰していた。6年以上もだ。
書く気力が正直失せていた。でも、最近になって少し心境の変化があり、また書いていこうという気持ちが出てきたので書き進めている。
その前回のタイトルが「人の死について」だった。
今回は<再び「人の死」について>というタイトルで書こうと思う。
「人の死」を忌避すべき話題と考える人もおられるかもしれない。
しかし、私にとっては、「生きる」ということと同等に重要なテーマである。
「人の死」をテーマにして考えることに興味をもっておられる方が読んで下されば幸いです。

(以下、考察です。)

 誰もが「死」について考えたことがあるだろう。
 「死」とは何か?「死ぬ」とはどういうことか?
 「死後の世界」というものはあるのか?
 死んだら「自分」はどうなるのか?
 妻は「死んだらどうなるの?怖い」と言っていた。
 また「死んでみなけりゃわからない」と池田晶子は書いた。確かにそのとおりだが、考えてみることはできる。
 そもそも「死」があるのは、生まれ、生きているからである。生きていればいつかは死ぬ。生まれたから生きて死ぬのである。それが私が知っているかぎりの「生物」というものである。
 では、生まれる前の「自分」というものを考えることはできるのか?つまり、生まれる前、「自分」はどこかに居たのか?「生まれる前、自分は別の人間として生きていた」という人がいる。しかし私には生まれる前の記憶はない。赤ん坊の頃の記憶もない。いつのまにか初めて自分は世界に存在しているという感覚である。宇宙はビッグバンによって生まれたという。これだって言い換えれば、いつの間にか宇宙は生まれたということだ。宇宙はどうして生まれたのか?偶然か?必然か?私はどうして生まれたのか?偶然か?必然か?偶然的必然?必然的偶然?同じことである。真実は宇宙自身のみ知る。でも私は自分が生まれたのは偶然(意味が込められていないこと)だと思っている。私の父と母が出会ったのは決して必然ではないと思うし、母の子宮内に着床した一卵子と父のペニスから放出された精子一億個のうちの一つがたまたま合体することにより私が生まれたと考えている。しかし、受精卵になった時点に私が生まれたと考えるべきなのか?それとも、母親の胎内から取り出された瞬間が生まれた時なのか?役所が出生届を受理した日が、法律上私が生まれた日だ。法律上はそれでいいだろう。生物学的な私の存在はそのときから始まったわけではないが‥。「自分」の存在を意識するようになったときが私が生まれた時点だと考えてもよい。しかしその時点を特定することはできない。「自分」から見れば、いつのまにか「自分」は世界に存在していたというほかはない。その「自分」(自己意識)は脳や神経組織等の生物学的台座が生み出すものだと思う。そう考えるのが自然だろう。
 というわけで、「自分」が人間として生まれた正確な日時を追究するのはあまり意味のないことかもしれない。
 話を戻すと、「生まれる前に自分は別の人間として生きていた」と考える人にとって、「自分」とは精子と卵子の結合によって生成する肉体ではなく、その肉体に宿る「霊魂」とかいうもののようだ。「霊魂」は滅びた肉体から分離し、「あの世」に行ったり、また別の新しい肉体に宿ったりする。輪廻転生するというわけだ。では「霊魂」とは何か?しかし、これを科学的に定義し、存在を証明することはできないだろう。科学的な方法で検証できないからだ。にもかかわらず、二一世紀になっても、葬式などの宗教的儀式では死後の世界「あの世」(天国・地獄・極楽浄土・冥界)やそこへ行き来する「霊魂」の存在を前提とした風習が広く行われている。なぜなのか?おそらくは、他人の死という心の絶対的な空隙を埋め、残された人達の心に平穏をもたらすためではないか?つまり、死にまつわる宗教的儀式や風習は、これらを目的として、意図せず構造的に仕組まれた観念的装置だと私は思う。要するに「あの世」というパラレルワールドや肉体から離脱して浮遊する「霊魂」は生きている人々のために創作されたフィクションと考えるべきではないか?それはそれで意味のあるものであり、否定するつもりはない。「信心深い人の方が唯物論者よりも豊かな人生を送る」という研究結果もあるようだし。
 私はかつての職場の旅行中、高速道路のドライブインのトイレで貧血になり意識を失ったことがある。周囲の人が救急隊を呼んでくれて、隊員が私の瞳孔に懐中電灯で光を差し入れたときにそれを感じて意識を取り戻した。この間数分以上はかかっているはずなのに、その時間の経過を全く感じなかった。睡眠を取ったとき、眠りに落ちてから目覚めるまでの時間の経過がわからないのと同じである。この経験について後になって考えた。意識を失って時空を知覚しないとき、自分は存在しないのと同じではないか?そして、自分が死んだときもとこれと同じではないかと思った。そうして、死ねば「自分」は消え、存在しなくなると私は考えるようになった。「死」とは「あの世」というパラレルワールドに行くということではないと考えるようになった。
 「自分」が消えることは怖ろしいことなのだろうか?そうではないと思う。何故なら、消えるとは「自分」が存在しなかった悠久の状態に戻るだけのことなのだから。嫌なのは死に際の苦痛だけである。
 死とは絶対的な「無」である。苦痛も恐怖も孤独感も快感もなく、何も見えないし、聞こえないし、感じない。何かについて考えることもない。すべての記憶は消え、喜びや悲しみ、愛する気持ち、怒りや憎しみ、善悪の価値観も存在しない。残した家族や友人を想うこともない。死んだ者にとっては時間もないし空間もない。感覚を機能させたり感情を発現させる手段はすべて失われているのだから。死者にとって世界は存在しないのと同じだ。本当は自分が存在しないのだけれど。存在しないのだから「存在しない」と感じることもない。ところで、今「死者にとっては云々」と書いたが、正確に言えば、この言い方自体が矛盾しており無意味である。「存在しない」=「無」から対象を見たりするということを考えるもくろみ自体が全くナンセンスだからである。
 私は生きている。いつ死ぬかわからないけど生きている。である以上、いろいろな感情をいだく。そして生きているのであれば、大切なものは何かを考える。それも自然なことである。自分を大切にし、家族を大切にし、私の周りの知人を大切にしたいと思う。それは自然な気持ちであり、生きていく上で重要なことである。
 私にとって生きるということは、それ自身に意味づけをしようとすることである。意味は自ずと存在するのではなく、意識的に考えることで初めて生まれてくるものだと思う。将棋の次の一手を考えるのと同じように。
タグ:考える
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