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遅ればせながら、instagramを始めた [日記]

遅ればせながら、instagramを始めた。
しかし、未だにスマホを所有せず、ガラケーのみを使用し続けている私は、instagramに投稿すること自体が一筋縄にはいかなかった。スマホにinstagramアプリをインストールして使っていて、専らスマホから写真や動画を投稿している方の中には気がついておられない方もいらっしゃるかもしれないが、パソコンから投稿をするには、instagramサイトに登録するだけでは駄目で、サードパーティのツールが必要なのですよね。
それでも、まあなんとかサードパーティツール(InstaPic)をインストールして、投稿が出来るようになりました。
ところで、昔からSo-netをプロバイダとしてインターネット接続を利用している方はご存知だと思いますが、このSo-netブログの姉妹的なものとしてSo-netフォトという写真(動画は不可)投稿サービスがありました。
このサービスを知って使い始めてからというもの、デジカメで写真を撮っては投稿し、他のユーザーとコメントし合ったりするのが凄く楽しいという時期がしばらく続きました。
でも、妻を亡くしてからはすっかりやる気が無くなり、このブログ同様、そのままほったらかしにしていました。そしたら、いつの間にかSo-netフォト・サービスは閉鎖されていたのです。So-netがなぜこのサービスを終了したのか知りませんが、「なかなか良いサービスだったのに残念」と、その時は思いました。きっと、当時は今のようにアフィリエイトもなくて採算が取れなかったのでしょう。ただ、So-netフォトは、非常にローカルなサービスに留まらざるを得なかったように思う。もし、So-netフォト・サービスがグローバルな展開を目指してアグレッシブに努力をし続けていれば、現在のinstagramになっていたかもしれないとも思う。

『この世界の片隅に』 [アニメ映画]

今日、『この世界の片隅に』を観てきた。クスッと思わず笑ってしまうところもあるのに、なんだか歳のせいか涙もろくなり、最初から最後まで目をショボショボさせ鼻水をすすりながら観てしまった。<のん>が<すず>の声と人柄にぴったりとはまっていたと思った。最後に<すず>に救いがあってよかった。さすが、高い評価を受け、観客動員数を増やし続けている作品だ。
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再び「人の死」について [考えごと]

ずうっとこのブログの更新をご無沙汰していた。6年以上もだ。
書く気力が正直失せていた。でも、最近になって少し心境の変化があり、また書いていこうという気持ちが出てきたので書き進めている。
その前回のタイトルが「人の死について」だった。
今回は<再び「人の死」について>というタイトルで書こうと思う。
「人の死」を忌避すべき話題と考える人もおられるかもしれない。
しかし、私にとっては、「生きる」ということと同等に重要なテーマである。
「人の死」をテーマにして考えることに興味をもっておられる方が読んで下されば幸いです。

(以下、考察です。)

 誰もが「死」について考えたことがあるだろう。
 「死」とは何か?「死ぬ」とはどういうことか?
 「死後の世界」というものはあるのか?
 死んだら「自分」はどうなるのか?
 妻は「死んだらどうなるの?怖い」と言っていた。
 また「死んでみなけりゃわからない」と池田晶子は書いた。確かにそのとおりだが、考えてみることはできる。
 そもそも「死」があるのは、生まれ、生きているからである。生きていればいつかは死ぬ。生まれたから生きて死ぬのである。それが私が知っているかぎりの「生物」というものである。
 では、生まれる前の「自分」というものを考えることはできるのか?つまり、生まれる前、「自分」はどこかに居たのか?「生まれる前、自分は別の人間として生きていた」という人がいる。しかし私には生まれる前の記憶はない。赤ん坊の頃の記憶もない。いつのまにか初めて自分は世界に存在しているという感覚である。宇宙はビッグバンによって生まれたという。これだって言い換えれば、いつの間にか宇宙は生まれたということだ。宇宙はどうして生まれたのか?偶然か?必然か?私はどうして生まれたのか?偶然か?必然か?偶然的必然?必然的偶然?同じことである。真実は宇宙自身のみ知る。でも私は自分が生まれたのは偶然(意味が込められていないこと)だと思っている。私の父と母が出会ったのは決して必然ではないと思うし、母の子宮内に着床した一卵子と父のペニスから放出された精子一億個のうちの一つがたまたま合体することにより私が生まれたと考えている。しかし、受精卵になった時点に私が生まれたと考えるべきなのか?それとも、母親の胎内から取り出された瞬間が生まれた時なのか?役所が出生届を受理した日が、法律上私が生まれた日だ。法律上はそれでいいだろう。生物学的な私の存在はそのときから始まったわけではないが‥。「自分」の存在を意識するようになったときが私が生まれた時点だと考えてもよい。しかしその時点を特定することはできない。「自分」から見れば、いつのまにか「自分」は世界に存在していたというほかはない。その「自分」(自己意識)は脳や神経組織等の生物学的台座が生み出すものだと思う。そう考えるのが自然だろう。
 というわけで、「自分」が人間として生まれた正確な日時を追究するのはあまり意味のないことかもしれない。
 話を戻すと、「生まれる前に自分は別の人間として生きていた」と考える人にとって、「自分」とは精子と卵子の結合によって生成する肉体ではなく、その肉体に宿る「霊魂」とかいうもののようだ。「霊魂」は滅びた肉体から分離し、「あの世」に行ったり、また別の新しい肉体に宿ったりする。輪廻転生するというわけだ。では「霊魂」とは何か?しかし、これを科学的に定義し、存在を証明することはできないだろう。科学的な方法で検証できないからだ。にもかかわらず、二一世紀になっても、葬式などの宗教的儀式では死後の世界「あの世」(天国・地獄・極楽浄土・冥界)やそこへ行き来する「霊魂」の存在を前提とした風習が広く行われている。なぜなのか?おそらくは、他人の死という心の絶対的な空隙を埋め、残された人達の心に平穏をもたらすためではないか?つまり、死にまつわる宗教的儀式や風習は、これらを目的として、意図せず構造的に仕組まれた観念的装置だと私は思う。要するに「あの世」というパラレルワールドや肉体から離脱して浮遊する「霊魂」は生きている人々のために創作されたフィクションと考えるべきではないか?それはそれで意味のあるものであり、否定するつもりはない。「信心深い人の方が唯物論者よりも豊かな人生を送る」という研究結果もあるようだし。
 私はかつての職場の旅行中、高速道路のドライブインのトイレで貧血になり意識を失ったことがある。周囲の人が救急隊を呼んでくれて、隊員が私の瞳孔に懐中電灯で光を差し入れたときにそれを感じて意識を取り戻した。この間数分以上はかかっているはずなのに、その時間の経過を全く感じなかった。睡眠を取ったとき、眠りに落ちてから目覚めるまでの時間の経過がわからないのと同じである。この経験について後になって考えた。意識を失って時空を知覚しないとき、自分は存在しないのと同じではないか?そして、自分が死んだときもとこれと同じではないかと思った。そうして、死ねば「自分」は消え、存在しなくなると私は考えるようになった。「死」とは「あの世」というパラレルワールドに行くということではないと考えるようになった。
 「自分」が消えることは怖ろしいことなのだろうか?そうではないと思う。何故なら、消えるとは「自分」が存在しなかった悠久の状態に戻るだけのことなのだから。嫌なのは死に際の苦痛だけである。
 死とは絶対的な「無」である。苦痛も恐怖も孤独感も快感もなく、何も見えないし、聞こえないし、感じない。何かについて考えることもない。すべての記憶は消え、喜びや悲しみ、愛する気持ち、怒りや憎しみ、善悪の価値観も存在しない。残した家族や友人を想うこともない。死んだ者にとっては時間もないし空間もない。感覚を機能させたり感情を発現させる手段はすべて失われているのだから。死者にとって世界は存在しないのと同じだ。本当は自分が存在しないのだけれど。存在しないのだから「存在しない」と感じることもない。ところで、今「死者にとっては云々」と書いたが、正確に言えば、この言い方自体が矛盾しており無意味である。「存在しない」=「無」から対象を見たりするということを考えるもくろみ自体が全くナンセンスだからである。
 私は生きている。いつ死ぬかわからないけど生きている。である以上、いろいろな感情をいだく。そして生きているのであれば、大切なものは何かを考える。それも自然なことである。自分を大切にし、家族を大切にし、私の周りの知人を大切にしたいと思う。それは自然な気持ちであり、生きていく上で重要なことである。
 私にとって生きるということは、それ自身に意味づけをしようとすることである。意味は自ずと存在するのではなく、意識的に考えることで初めて生まれてくるものだと思う。将棋の次の一手を考えるのと同じように。
タグ:考える
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人の死について [考えごと]

 今朝、携帯をチェックしてみると着信電話ありの記録があった。
 電話は昨日の夜中にあり、学生時代から付き合いのあるSからだった。
 こちらからかけ直してみると、「Aが昨日の朝に亡くなった」という知らせがAの妻から入ったというものだった。
 AとはSら数人の仲間と一緒に年に一~二回くらい酒を飲む程度の付き合いだった。
 昨年も同じ飲み仲間の一人Tが亡くなっている。
 三ヶ月ほど前、その仲間の飲み会があり、一緒にとりとめもない話しをした。
 そのときにはTの死のことも話題になった。
 このときAは、「平均寿命まで未だ二十年近くあるから、それまでどう生きるか」というようなことを言っていた。
 自分は平均寿命までは生きると思っていたのだ。
 私は彼に「妻が亡くなってからは自分もいつ死ぬか分からないと思って生きている。平均寿命は統計の話しで、個々の人間がいつ死ぬかは誰にも分からない」と言ったことを覚えている。
 彼の死因は聞いていないので分からないが、本当に人はいつ死ぬか分からないということだ。
 今夜通夜があるとのことで、焼香に行こうと思う。
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整理をするということ [考えごと]

時間がありながら何をしていいか分からないとき、ふと整理を始める。整理って、掃除や草むしりと同じで、徹底的にやろうとすると結構時間がかかる。だから適当なところで良しとする。最近しばらく何冊か続けて池田晶子の本を読んでいる。それで本棚にランダムに置かれていたものを発刊日順に並べてみた。それだけで何か気分が落ち着いた。池田晶子の著作は、いつか全部読みたいと思う。未だ三分の一も行ってないかな。ある程度まで読んだら、池田晶子の著作について書いてみたいなと思っている。
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料理教室 [日記]

 妻が亡くなって以来、家で一人だけで食べる料理は、殆どレトルト食品。ご飯を炊いたり、ゆで卵を作ったりは時々するけど、鍋やフライパンを使って煮たり焼いたりは、殆どしない。自宅でレトルト食品をお湯で解凍したり、電子レンジでチンしたり、りんごやキウイの皮をむいたりするだけだと、何だか虚しくなってくるんだよね。
 そこで今日、ついに料理教室に行ってきた。今回は一回のみの体験コースということで、料金は3,800円。
 今回作ったのは、いなりちらし、キムチ肉じゃが、すまし汁、菜の花のナムル、利休まんじゅうの五品。2時間で、これだけのものを作るのは忙しい。覚えるというよりは、言われるままに、ひたすら作業をしたというのが私の実感。
 一食3,800円で外食するなら結構ご馳走が食べられるかも。でも、初対面の人たちと協力しながら料理に挑戦して、その後いろいろ会話しながら一緒に食べたのは、なかなか楽しかったよ。
 できあがったものを写真に撮ろうとカメラを持って行ったのに、すっかり撮るのを忘れてました。家に持ち帰ったキムチ肉じゃがと利休まんじゅうを、美しくないけど載せておきます。

キムチ肉じゃが.JPG
利休まんじゅう.JPG

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妻が夢に…。 [日記]

 短い夢だった。
 どこかの旅先。まわりは寺院風建物の明るいオレンジ色の柱が立ち並んでいる。
 その前を妻が歩いていた。
 私は思わず妻の名を叫び、駆け寄り、妻を抱きしめた。
 「やっと会えたね。」
 妻は、少し戸惑った様子。でも嬉しそうだった。
 妻が亡くなってから、夢の中で会いたいと、ずっと思っていた。
 やっと会えたのだ。
 そこで、ゆっくりと目が覚めた。
 とても嬉しい気持ちが胸にすうっと広がった。

 DSC01379S.JPG
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アーサー・C・クラークの死去 [日記]

アーサー・C・クラークが亡くなったね。言わずと知れた、スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」の原作者。映画は、1968年に封切られた時に、前橋のオリオン座の大画面で見たんだ。骨を武器として使うことを覚えた人類の祖先が、その骨を空に放り投げ、骨(道具)が宇宙空間に浮かぶ有人宇宙船にまで進化したと思わせる映像の展開シーンから、ヨハンシュトラウスの「美しき青きドナウ」がゆっくりと流れ始めたときは本当に感動したよ!原作も翌年に当時のハヤカワ・ノベルズで読んだんだ。原作と映画ではディスカバリー号の目的地が土星から木星に変更されたりの違いはあるけど、原作も映画も素晴らしい作品だと思う。ただ、SF映画史上の不朽の名作といわれるこの映画はスタンリー・キューブリックだからこそできた作品だと思うよ。DSC01373s.JPG
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気持ちを入れ替えたい。 [日記]

 気持ちの持ち方で、自分のまわりの見え方が変わってくるのかも知れない。
 世界に対して自分の気持ちを投影して見ているのだと思う。
 落ち込んだ気持ちでまわりの世界を見ると、世界も暗く陰鬱に見えてしまう。
 日常の小さなことでもいいから、楽しいことを考えよう。
 そして日常の雑事を楽しもう。
 やらなければならないことを仕方なしにやっているのではなくて、楽しいと思うようにしようと思う。
 ネガティブ思考に陥りがちの私には、簡単なことではないけれど。


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自分の現実を受け入れよう [日記]

 今年は自分にとって、今までの人生上で最悪の年だったと思う。
 でも、その現実を、心が未だ、きちんと受け入れきっていない。
 だから前向きな気持ちになれないのだと思う。
 淡々とした気持ちで生きられれば、それでいいと思うのだけれど…。
 平常心に戻るには時間の経過が必要なのかも知れないが、その時間の経過を耐えて待つしかないのだろうか。


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