NHKスペシャル「ワーキングプア」 [雑感]
2006年7月23日(日)午後9時~10時14分に放送されたNHKスペシャル「ワーキングプア~働いても働いても豊かになれない~」に大きな反響が広がっているようだ。
1週間後の今朝の7月30日(日)読売新聞朝刊の「放送塔から」には、《貧困から「脱出不可能」に怒り》の見出しで「働いても貧困から脱出できない人々が増えている、と訴えるNHKスペシャル23日「ワーキングプア」に、驚きや怒りの意見をいただいた。…」とある。
私も見たが、少なからず衝撃を受けた。
ブログなどでも、このことについて書いている人たちが結構いるのを、検索して確認した。
何処かの国の政権与党の次期総裁候補が「失敗しても再度挑戦できる社会をつくる」というようなことをマニュフェストに掲げている。
しかし、どうやら今の日本は、働いているのに生活保護水準以下の暮らししかできない人たちが日本の全世帯のおよそ10分の1の400万世帯以上ある社会になっているようなのだ。
努力しても、まともに生活ができない収入しか得られない環境に耐えなければならないとしたら、人生上の飛躍のための最初の挑戦の機会を得ることも困難であろう。
「ワーキングプア」の解消こそ、政治の最も重要な課題の一つとして取り組むべきであると思う。
努力しても報われない社会はいずれ崩壊する。
梅田望夫の「ウェブ進化論」 [読書]
梅田望夫の「ウェブ進化論」をしばらく前に書店で買って、一気に読まず少しずつ読んでいたが、今日、ようやく読み終わった。
Web検索には専らGoogleを利用しているが、これを読むまでは、Googleを運営する人たちのことは何も知らなかった。
「Web2.0」という言葉も知らなかった。
これを読んで、インターネットが登場して10年以上経ち、インターネットの世界が様変わりしつつあることを感じ取ることができた。
爆発的に普及しつつあるブログも、個々の記事に固有のアドレス(パーマリンク)がつけられていることやRSS技術が当たり前のように使われていることで、今までの、データベースを使用しない公開Web日記やホームページを大きく超えるインターネット上での情報伝播力を発揮していると得心した。
この本に触発されて、Googleに興味を持ったので、「Google誕生」を買ってしまった。
分厚い本だが、何とか読みこなしたい。
十八代目中村勘三郎襲名披露 松竹大歌舞伎 [観劇]
おととい(2006年7月14日)になるけど、歌舞伎(群馬音楽センター、高崎市)を見に行ってきた。
歌舞伎は、何年か前に銀座の歌舞伎座で見たのを始めに、昨年の10月9日に日生劇場で「夢の仲蔵千本桜」を妻とその友人と見て以来だ。
正直、歌舞伎を、それほど好きというわけではない。今回も妻に誘われたからだ。
でも、今度は見て、ほんとに面白かった。
席は16列だったけど、音声ガイドを借りて見たせいも多分にあるが、分かりやすかったし、内容も良かった。
私達が観たのは夜の部の演目で、
襲名披露口上
義経千本桜「木の実」・「小金吾討死」・「すし屋」の場
だった。
中村勘三郎の襲名披露口上なども、ユーモアと迫力があった。こちらに公演で来たのは18年ぶりだそうだ。
義経千本桜は全部で八つの場があるらしいが、今回の演目は、そのうちの三つの場だ。
勘三郎は「いがみの権太」役で「木の実」と「すし屋」の二場に登場したが、小悪党だが何処か憎めず可愛げと哀れを感じさせる「いがみの権太」を活き活きと演じていた。
「すし屋」の場の最後に、人間として生き直そうとしていたいがみの権太は、されて当然のごとくの誤解により父親に刃物で刺され、すぐに誤解が解けるも息絶えるところで終わる。 (ここで、私は童話の「ごんぎつね」を思い出してしまった。)
どんでんがえしのどんでんがえしという展開を堪能した。よく練られた脚本だ。さすが、三大歌舞伎の一つといわれているだけのことはある。
中村勘三郎の歌舞伎をもっと見てみたいと思うようになった。
兄の怪我により二役を演じた中村七之助も、小金吾をすがすがしく、お里をみずみずしい色気を放って演じていた。
So-net blogのブログ検索について [So-net blogの最新情報]
次回の定期メンテナンス実施とは直接関係ないですが、So-net blogのブログ検索について疑問があるので投稿します。
私自身のブログの投稿記事を、So-net blogのブログ検索で、それぞれの記事固有のフレーズをキーワードにして検索してみましたが、見つけ出してくれない記事が数多くあります。見つけ出してくれた記事もありますが。
一方、Googleを使って検索すると、ほとんどの私の記事を瞬時に見つけ出してくれました。Googleで見つけてくれなかったのは、最新の二つの記事だけです。これはGoogleのロボットがインターネット上の膨大な新しいページを順次インデックス化していくのに、時間がかかっているためだと思われます。
So-net blogのブログ検索エンジンには、何か欠陥があるのではないでしょうか?
調査して欲しいと思います。
レッド・プリーストのヴィヴァルディ [クラシックコンサート]
今朝(7月10日)は家事等の雑事をやろうと休暇を取ったので、定時出勤の必要もなく朝のんびりとテレビをつけていた。
何となくNHKのハイビジョンにチャンネルを回しておいたら、8時から「クラシック倶楽部-レッド・プリースト スタジオ・コンサート -」というのが始まった。
英国から来た男女4人組の、リコーダー、バイオリン、チェロ、チェンバロの奏者で構成されるアンサンブルで、いずれも黒いコスチュームに身を包み、まるでロックグループだ。
ヴィヴァルディの曲を中心とした1時間ほどのスタジオ・コンサートの演奏とその合間に挿入されたメンバーらのトークを最後まで見てしまった。
ううむ!これは私が見たことのないスタイルの演奏だ。
そして、とてもエキサイティングな演奏だ。
なんと斬新で迫力に満ちた演奏であることか!
ほんとに心臓がドキドキした。興奮したぞ。
今まで、私の脳の中ではヴィヴァルディといえば「四季」、「四季」といえばイ・ムジチと連想するようにニューロンがつながっていた。
ところが、レッド・プリーストが演奏するヴィヴァルディの「四季」は全く異なっていた。
あっさりと私のニューロンはつなぎかえられた。
そもそも<レッド・プリースト>(和訳すると「赤毛の司祭」とのこと。)というグループ名は、ヴィヴァルディのあだ名なのだそうだ。
ヴィヴァルディ自身が、果敢に伝統に挑戦する、当時かなり革新的な人間だったらしい。(知らなかったよ!)
また、ピアーズ・アダムスによる超絶技巧のリコーダー演奏は、「リコーダーは学校教育用の楽器」というイメージを改めさせてくれた。
番組が収録されたのが6月12日で、それより前の6月6日に「津田ホール」で、9日に銀座「王子ホール」でコンサートがあったようだが、既に離日しているらしい。
また来日したら、是非コンサートを聞きに行きたいと思う。CDも是非手に入れたいものだ。
(アーティストの公式ホームページから)
通勤の行きと帰りに撮った写真です。 [ありふれた日常だけど…]
今日も胸ポケットにデジカメを入れて車で朝7時半頃家を出た。
車通勤の途中でいつも何となく気になっていたパチンコ屋の看板。ちょうど信号待ちで車を止めたわずかなチャンスを逃がさず、撮った。(撮影時刻はデジカメの記録で8時2分)
今度は、職場から自宅への帰路。同じ看板を裏側から望める位置で、ちょうどまた信号待ちとなり、再び撮った。すでにネオンが光っている。(撮影時刻は17時51分」)
この女性の顔の絵って、他のどこかでで見たことがあるような気がするんだけど…。
討論番組について(「無知の知」パート2) [雑感]
最近の討論番組といえば、「太田光の私が総理大臣になったら」がある。
この番組は、まさに岡崎氏がけしからんとしている「激論」番組である。
だが、この番組での太田光の発言を聴いてみると、彼は凄いと思う。
凡百のいわゆる言論人よりも遙かに深く鋭い見識を披露していると私は思う。
見識の中身というのは、その人が、自身の人生経験を如何に内面化してきたかで決まってくるのではないか?
知識はそのための補助手段でしかないと思う。知識とは、〈現実〉に対する仮説を含んだ解釈であり、〈現実〉そのものを鏡のように映し出しているわけではないからだ。
もう一つ、16年以上前から続いている「ビートたけしのTVタックル」がある。
こちらは、「世相討論バラエティ番組」というそうだが、私はこちらも好きであり、よく見ている。岡崎氏には、自分が呼ばれないからって、やっかむなよっていいたくなるね。
最後に、NHKの日曜討論。これには岡崎氏も出演されているんじゃないのかな。でも、やたら形式的な公平・中立性にこだわった司会進行が番組を面白味のないものにしていると思う。
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「無知の知」を自覚せよ。…ソクラテスじゃないけれど。 [エッセイ]
今朝(2006年7月2日)、読売新聞朝刊を開いたら、第1面のコラム「 空虚な激論番組 戦後平等主義の悪弊 地球を読む」の見出しが気になったので読んでみた。執筆者の岡崎久彦氏はテレビの座談会や討論番組等で時々見かける人だ。
この発言内容がちょっと気になった。
そこで、論旨を紹介するため、私なりの要約と引用を以下に記す。
今年の正月のTV番組に、今後1年間の内外情勢を語る座談会のようなものは皆無だった。
これには、戦後の平等主義、アンチ・エリート主義が浸透して識者及び識者の意見は無用という風潮があるのではないか? (ここからの下の『』内の部分は、原文そのままの引用である。) 『イラク戦争たけなわだったころのテレビのワイドショーは不愉快だった。国際情勢などに何の基礎知識もない連中が、庶民感覚とか、主婦感覚と称して喋りまくる。こっちがまともな話しをしようとしても10秒、せいぜい長くて20秒しか話せない。それ以上になると、人の話の途中でおっかぶせて発言するやつが出てくる。世の中には、問題によって、どうしても30秒はかけないと説明できないこともあるのだ。』 昔の「世相を斬る」というトーク番組が「報道2001」に衣替えし、初めは竹村建一氏一人だったのに、次々に出席者の数が増えて討論番組へと変容していった。 さらに最近は、「激論……」というような討論番組が増え、出演者に激しくやるように演出を強要する番組もあり精神的頽廃だ。 一方、アメリカでは、専門家がイラクの情勢や歴史をきちんと説明してくれる。『それに対して日本の視聴者は、自衛隊海外派遣の是非など、どんな素人でも一言は言えることを、大きな声で「激論」しているのを改めてみるだけである。これを見せられている日本人の視聴者の教養の蓄積がアメリカ人に劣っているであろうことは明々白々である。』 また、番組制作側が、はじめから討論の展開シナリオをつくり、それに従って録画を編集して、シナリオどおりに議論があたかも収束したかのような取り繕い方をして放送する、ひどい例もある。(岡崎氏自身が)自分の論旨の根拠を説明した部分を勝手にカットされて放送されたことがある。これは識者から学ぼうとする姿勢が皆無であることの表れである。なお、高視聴率を得ることを最優先して番組をつくっていることを番組制作者が認めている。 このように、討論番組が、シナリオのない本当の討論でなくなり、受け狙いの、シナリオによって演じられる立ち回りショーとして制作されている。 討論番組がこのように変質していった背景には、戦後日本の悪平等思想がある。この平等思想の背後には左翼思想だけでなく戦時中の日本軍にあった個人を否定した組織優先思想の残滓がある。識見のある一人の人間にに任せればできることを集団にやらせようとするから、空回りして目的遂行がなかなか果たせない。 最近ある有料テレビで、(岡崎氏にとって)理想的な、緊張感があり見識を満喫できた対談に接した。従来のチャンネルの奮起を期待する。 |
以上だが、だいぶ長くなってしまった。
私がいいたいのは、「岡崎さん、あなた自身も「無知の知」を自覚すべきじゃないですか?」ということである。
本当は知らないのに見栄で知ったふりをするのは危ういし、「主婦感覚でいうと」とか「庶民感覚でいうと」などと自分の感覚を一個人のものでなく一般化して発言する人も奇妙だが、識者と呼ばれている人が「素人は黙っていろ。おまえら素人の知らないことを俺が教えてやる。」というような態度で相手を見下すのも、上等な態度とは言えないでしょう。
他人が舌を巻くようなレベルの知識を有していることと、その人が尊敬に値するかどうかは別のことである。そんなことは、あなたも分かっているでしょうけどね。
未だ続くが、時間をおいて、新しいページにしよう。
岡本太郎美術館のモニュメント (2001年8月撮影) |